No.2になれ

ちと日本史関連になりますが。*1


主題をNo.2になれと書きましたが、なぜ書いたかをここで書く。
時は戦国時代、1560年代から織田信長の天下統一事業が始まった。織田信長は積極的にいろいろなところへせめていった。
んで、織田信長は新たに領地を獲得するとそこで、相撲を行なった。なぜ相撲を行なったか。それはその土地の農民の力自慢の人間を徴兵するためである。織田信長は力自慢の人間たちにこういった。「こんなところで農作業やっててもつまらんだろ。兵をやった方がいいぞ。」と
そして相撲させて、それを見て織田信長に仕える武将たちが、力自慢の人間を獲得しにいく。それは今で言う野球のドラフトとほぼ同じようなものといってもよい。
その後、織田信長の天下統一事業を引き継いだ豊臣秀吉も相撲を行なった。
しかし、両者の相撲は一点だけ違う点がある。
それは織田信長は大人相撲で、豊臣秀吉が子供相撲である点である。
それはある意味で大きな差がでるのである。
というわけでまずは豊臣秀吉の子供相撲について書いてみる。なぜ子供相撲なのか。それは豊臣秀吉の考え方が常に将来のことを考えるものであったからだ。
豊臣秀吉は相撲をさせて、その子供を「俺が育てる」といってかっさらい、豊臣秀吉自ら*2の手で育て上げていった。その代表例が加藤清正福島正則石田三成etcといった豊臣秀吉が天下を握っていた時代でははずせない武将たちである。豊臣秀吉は彼らを巧みに使って、天下統一事業を果たしたのである。
逆に織田信長はその場その場で物事を対処し、なおかつ政策面においてはほとんど一人でに行っていた。その結果、明智光秀に襲われ、本能寺の変で自害してしまったのだ。
そう、豊臣秀吉織田信長に仕える傍らで「自分が将来天下統一を果たすんだ」ということを織田信長の行動を見ながら、織田信長とは違う自分流の考え方を構築していったのである。
要するにいいたいのは、No.1の人を見て、その欠点を自分の中で見つけ、なおかつそれを改善した考え方をもち、No.1が倒れた後に、その蓄積した考えを実践にうつし、目標を成し遂げるNo.2が実はすごいということである。*3

今の時代じゃあ、それほどの資質を持ち合わせているのはどれぐらいいることやら・・・。
長くなったのでおわり。

*1:といってもマニアックなことですが

*2:というのは少々語弊があるが

*3:ただし、それほどの資質があればの話だが・・・。